日本共産党の歴史

戦前~戦時中:大弾圧を受けましたが、主権在民を主張し続けました

 日本共産党は1922年7月15日、平和と民主主義の旗をかかげ、非合法の政党としてスタートしました。いま“非合法”といえば悪い印象ですが、当時の状況は違います。戦前の日本は、天皇絶対の専制政治で侵略戦争を推し進めていました。だから主権在民の民主主義をもとめることや、侵略戦争に反対することが極悪の犯罪とされたのです。

(1922年11月には、日本共産党はソ連が主導する共産主義インタナショナルの日本支部となります。ソ連共産党と日本共産党のかかわりについては後述します。)

  党設立の翌年には治安維持法による弾圧が始まり、1929年までに逮捕されたのはおよそ千人。特高警察による拷問や虐殺で、日本共産党は指導幹部を次々に失いました。そんな混乱の中、思想的に弱点のある人が指導者になった誤りもありましたが、党内の厳しい批判を受けてまもなく是正されています。党の新しい活動家が次々と現れて、機関紙「赤旗」で侵略戦争反対を訴え続けていきました。

 1931年、天皇制政府が満州事変を起こすと、ほかのすべての政党は積極的に侵略戦争を支持し、大政翼賛会に合流。日本共産党だけが主権在民と平和を主張し続けたため、戦時中はいっそう日本共産党への弾圧が激しくなりました。治安維持法により逮捕されて、命を落とす党員が増えました。中心メンバーをほとんど失う中、政府のスパイが幹部になり、党員に暴動を起こさせて投獄させるなどといったひどい事件も起きました。小説『蟹工船』の作者、小林多喜二もスパイの手引きで逮捕され、特高警察に虐殺された一人です。

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戦後:支配者層に弾圧されましたが、庶民の味方であり続けました

 戦後、日本国憲法には、平和と国民主権の民主主義が定められました。しかし実は、日本国憲法をつくるとき、国民主権を主張していた政党は日本共産党だけでした。戦時中に大政翼賛会として戦争を推進した各政党が名前を変えて出発するなか、侵略戦争に反対をつらぬいた「日本共産党」は、名前を変えずに堂々と活動を再開できたのです。

 ところが、戦後もアメリカ占領軍のもと、政府による日本共産党弾圧は続きました。それには、アメリカ対ソ連=資本主義国家軍事同盟vs社会主義国(共産圏)軍事同盟という覇権主義のぶつかりあい=「冷戦」によって、共産党がアメリカに敵視されたという背景もあります。しかし何よりも、アメリカ占領軍と大資本家、支配者層にとって、日本共産党の"草の根運動"が邪魔だったのです。

  覇権主義のアメリカと、お金儲けをしたい支配者層は、労働者の処遇改善運動や人権運動、アメリカによる占領からの独立運動が活発化することを恐れました。ゆえに草の根で活動する日本共産党の勢力を弱めようとしたのです。

 日本共産党は現在も、職場や地域、学園に「支部」をつくり、国民の苦難を軽減し、世の中をよくしたいと活動をしています。全国に2万の支部があり、草の根で国民としっかり結びつき、くらしを良くする要求運動をしています。ですから今日でも、支配者層による日本共産党のネガティブキャンペーンはさかんです。

ソ連との関係:試練を乗り越えて自主独立の党になりました

 さて、冒頭に触れたソ連共産主義インタナショナルとの関係をここからお話します。これを知っていただくことは、日本共産党を正しく知ってもらううえでかかせません。

 日本では20世紀初頭、天皇制政府による弾圧を受けながらも社会主義をめざす運動が発展。1910年から20年代はじめには、大正デモクラシーとよばれた民主主義運動がたかまり、1918年の米騒動、20年には日本最初のメーデーが行なわれました。こういった社会進歩を目指す運動のひろがりと、1917年にロシアで起きた社会主義革命(=ソ連の誕生)の国際的な経験をへて、日本共産党が結束しました。

  その当時、ソ連のレーニンは共産主義インタナショナル(コミンテルン)という国際組織をつくり、各国の共産党の創立と活動を援助し、資本主義諸国だけでなく、植民地・従属諸国での民族解放運動を重視していました。その枠組みのなかで日本共産党は、コミンテルンの日本支部となります。

 しかし社会主義をめざしていたソ連はレーニン死後(1924年没)、大きく変貌をとげます。後継者となったスターリンは人間の自由を抑圧し、他民族の自由を抑圧しました。社会主義を名乗ったまま、実際には覇権主義に変わっていったのです。

  以来、ソ連は日本共産党に対して誤った干渉をしてくるようになりました。その干渉が特に大きな損害を引き起こしたのは戦後の1950年。ソ連は日本共産党の幹部数名をスパイとし、勝手に分派を作らせて、一部の党員に暴力的な活動をさせました。これにより日本共産党は国民の信用を欠き、党分裂の危機にいたります。しかし1953年、日本共産党はスターリンの死去を転機に体勢を立て直し、1957年には総括文書を発表して、ソ連に干渉されない自主独立の党への道をひらきました。

 とはいえ日本共産党がスパイの存在を知ったのは、ソ連が崩壊した1991年以降でした。それまで事実を知らないままに、ソ連の干渉とたたかい続けたのです。

 1960年代、冷戦が激しくなるさなかには、日本共産党はソ連・中国の二つの大国の激しい干渉を受けました。それは日本共産党の破壊・変質をめざす干渉でした。ソ連からは「覇権主義・ソ連の手先になれ」、中国の毛沢東派からは「中国と同じ方法で革命を起こせ」といわれたのです。その間、内通するスパイが勝手にソ連を支持する活動を行なうなどの混乱も生じています。

  そういった中でも日本共産党は、国民運動に積極的に取り組み、アメリカとソ連の覇権主義に反対し、大企業の利潤第一主義とアメリカ追随の軍事・外交を柱とした自民党政治の流れとたたかい続けました。当時、ほかの政党が本質を見ずに礼賛していた毛沢東の恐怖政治、「文化大革命」に対しても、日本共産党は全面的に批判し、孤高にたたかっています。そして党内の論争を徹底的にしていくことで、マルクスいらいの科学的社会主義の理論を再検討し、それを発展的に継承する立場を確固たるものにしていきました。1960年代のたたかいをつうじて、日本共産党は、日本国民のなかに深く根をはった自主独立の党、そして国民の党として大きく前進しました。

今日:ほんとうの社会主義とは何かを、綱領に明記しています

 今日、日本共産党は旧ソ連だけでなく、中国も、社会主義に到達した国とは見ていません。日本共産党の綱領の中には、「社会主義・共産主義の日本では、民主主義の自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが受け継がれ、いっそう発展させられる」という確固とした方針を明記しています。さらには「『社会主義』の名のもとに、特定の政党に『指導』政党としての特権を与えたり、特定の世界観を『国定の哲学』と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる」ことも明記しています。旧ソ連・中国・ベトナム・キューバなどでは、共産党に特定の指導的地位を認めていて、日本共産党が目指す未来とは違う、そのことを日本共産党は綱領できっぱりと宣言しています。

  日本共産党は人類が将来、資本主義のさまざまな矛盾を乗り越えて、未来社会――社会主義・共産主義にすすむことを展望しています。

 

【文責】日本共産党茨城県南部地区委員会

【参考文献】書籍『日本共産党の八十年 1922~2002』発行 日本共産党中央委員会出版局

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